昭和46年07月22日 朝の御理解



 御理解 第50節
 「とかく、信心は地を肥やせ。常平生からの信心が肝要じゃ。地が肥えておれば、肥  えをせんでもひとりでに物が出来るようなものぞ。」

 とかく信心は地を肥やせ。それには常平生からの信心が肝要である。結果は一人でにものが出来る様なものそと仰るようなおかげになってくると言うのである。お互い信心をさせて頂いて、例えば朝参りでもなさる。皆さんの場合は、それこそ修行をされておる訳であります。毎日こうやってお参りになる。いわば常平生からの信心が、この様にして出来ておる訳であるが、十年経っても二十年経っても、ひとりでに物が出来る様なおかげを受けていないとするならね。
 ちょっと教祖様が、嘘を仰っておるか、又はこちらの方に、どこか間違いがあるかということになる訳です。ひとりでに物が出来る様なおかげを頂いておるか。願わんでも頼まんでも、ちゃんと自分からおかげが、それこそ、先に待っておる様なおかげを受けておるか。受けていない。そうすると教祖様はちっとオーバーに言うてござる、いや嘘を言うてござる。私は決して教祖様のお言葉の中に、オーバーな表現があろうとも思わん。嘘を仰っておるとも思わん。絶対なものとして私は頂く。
 してみると長年こうやって信心に、常平生からの信心を、本気でさせて頂いておる様であるけれども、地が肥えて居ないと思うより外はないですね。言うならば、空念仏的なおかげ、空念仏的な信心だと云うより外はないです。私は教祖様の御教えはどこまでも、それを絶対のものとして頂いて、こちらの方を正して行くこと以外にはないと思うです。親先生が言われることを絶対のものとして頂いて、親先生はあげん言いなさったけれども、こうなったち言うことではなくてです。
 としてこちらが正して行く以外には無い。それが信心だと私は思うです。常平生から、矢張り地を肥やしておかなければならん。只一生懸命毎日お参りしよる。常平生から、しっかりお供えもしよる。果してそれで地が肥えるだろうか。私は地を肥やせと云うことは、いろいろ大きな意味も有りましょう、小さい意味も有りましょうが。先ず何と云うても、自分の心を肥せと云うことだと思うですね。又大きな意味に於いては、天地への還元と云うことにもなるですね。皆さんが例えば奉仕をなさる。
 これは信心しておるからこそ、される事であって信心がなかなら、そういう事はせんでもどうでも良い。奉仕をなさる、御用をなさるとするが良いお供えをなさる。これはですね本当に私は、天地への還元でなからなければならんと思うです。何十年間お参りさせて頂いて、随分お供えをしたから、ほんならそのお供えが果して天地への還元、天地へのいわば根肥しになっておるだろうか。ある篤農の方が言っております様に、特別わざわざ肥料を施さなくても、例えば稲なら稲が取れる、取れたら実をとは言わん。
 その殻だけでも良いから、全部大地に返せと言っております。麦なら麦がとれたら、その麦の殻だけを、大地に返えして行けと。これが大地への還元だと言っておられます。おかげを受けたら、本当に有難いと思うたら、その有難いと思うこと、勿体ないと思うこと。それを有難いと思う心、勿体ないと思う心が、それがお礼のしるしに還元される。これが私は、天地へ対する還元だと思う。いわゆるおかげの受ける場と云うものが、段々肥えて来る訳です。とかく信心は地を肥やせ。
 何十年間の信心をさせて貰う、何年の信心でも良いがね。何年の信心させて貰って、本当に段々分からせて頂く所を分からせて貰うたら、おかげの世界と云うものが、段々自分の周囲から広うなって行く。本当に信心のない時には、当り前の様に思うておった事が、天地の御恩恵に依る事であり、神様のお働きであるということが分かって、その事に対しての神恩報謝の生活が出来る様になる。神恩に対して報謝し奉る。報い奉る。それが私は、還元になるのだと、それが根肥しになるのだと。
 だから限りない神様のおかげに対する、ささやかなお礼のしるしと云った様なものが、その内容にはなからなければならない。実は取っても殻だけは、大地に返せと云うのですから、そうでしょう。実とまでちは云わんです。殻だけで良いと言う。そういう意味で還元して行く。だからその還元して行くという事がです、本当にだから有難い。御用をさせて貰うことが、お供えをさせて頂くことが本当に有難い、と云うことにもならなければならん訳ですね。
 何時でしたかね、中村さんがお話になった時に、お供えのし儲け、お参りのし儲けと云う様なことを言われましたですね。これはまぁ潔い心ですよね。お供えのし儲け、お参りのし儲け。そういう心が、還元にはなからなければいけんです。お参りする。こればいっちょ、どうでんお願いして、おかげを頂かんならんけん、お参りしよるとこう言う。これば、おかげば頂こうと思うてから、これだけ御用もしよればお供えもしよる。と云うなら、お供えのし儲けにはならん。
 お参りのし儲けにはならん。おかげは、これだけいっちょ、お願いしてから、おかげを頂かんならんけん参りよるとじゃもん。そういう私は、天地に対するところの還元の信心と言うのは、根を肥やすと言うことは、そういう内容が段々本当なものになって来ることだ。それが確実に、間違いなく、天地に対する根肥しになっておりますから、ひとりでに物が出来る様になる。またの表現を致しますと、これは自分の心がと。
 とかく信心は地を肥やせ、常平生からの信心、常平生からの信心に依ってです、果してほんなら自分の心が肥えて行きよるか、心の大地が肥えて行きよるか。大地の信心が出来て行きよるか。心がいよいよ豊に大地で云うならば、豊穣な地としてです、本当にひとりでにものが出来る様な心の状態になって行きよるか。心が打ち耕されよるか。雑草は取りよるか。心が豊に段々なって行きよるか。
 自分の心が、私は肥やされなければならない信心。それが常平生からちゃんと、その事に精進をして行かんと、さあ一遍にと云う訳にはいかん。私はお百姓のことはよく知りませんけれど。急に効く肥やしと、段々効いてくる肥やしとがあるそうですね。何か待ち肥えか何かと云うのがありましょう。これなんかはちゃんと、何ヶ月も前からしてある訳でしょうか。そすと何か植えた時分に、それが効いてくると云う訳じゃないですか。まぁよく知りませんけど、そんなものじゃないでしょうか。
 だから、今お供えしたから、今おかげを頂くなんていう様な事を考えずに、これが待ち肥えになって行きよる様な思い。それかと云うて、それはまあテキパキ効く場合もありますよね。化学肥料の様な、すぐ効く様な、そういう生き方もあるんです。これは、福岡の三代の吉木辰次郎先生が、よくお話になっておられた。大変な病気をなさった。もう医者は難しいと云う。まぁだお若い時です。折角福岡のあぁいう大教会の三代を継がせて頂いたのに、これじゃ御用も出来ん。
 そこでふっと気が付かれた事はです。教会にある預金通帳を、全部集めさせなさった。自分の身につける着物とか、洋服とかという様なものを、これは自分の物だけ。全部それをお金に替えられた。そして教会にあるだけの預金通帳を全部出させて、それを親教会と御本部へ全部奉納された。献納された。それこそもう難しかろうという様な病人がですね、それこそ手の平を返すようにおかげを受けられたと云う話をよくなさっておられました。これなんかは、いわば、化学肥料の様なもんです。
 自分の思いの中にですね、自分のものとては、着物一枚でも、皆神様の御物だという様な頂き方。私もそれに習うた訳じゃないけれども。まだ椛目時代に、あることに信心の一つの行き詰まりとでも申しましょうか。そういう時に私は、その時分、椛目で先生と言われておった方達に、私の着物を全部上げてしまいました。もうおかげで、その頃はね、タンスのお供えまで頂いた。おかげでタンスに、その着物を入れんならん位にいろいろ頂いておりました。
 久保山先生、秋永先生、楽長の田中さんに至るまで、私の持っておるもの、だから最後には、田中さんに上げるものがなかったから、その時御結界で使っておった、ものすごい生地の良い袴をはいておりました。だから私は、その袴を脱いで上げました。だからあそこ何日間か丸腰で、袴をはかずに御用させて貰った。その当時、私が頂いておる最高の着物でした。を、全部上げてしまいました。楽ですね。
 本当にこう、体いっちょになる時が、非常に楽です。私は別に病気しておったという訳じゃないけれども、そこから信心の行き詰まりがですね、もう本当に、手の平を返す様に変わった。もうそうですね、様々な、又タンスを頂いて、又着物が、それに一杯になる様なおかげ頂くのは一年とはかかりませんでした。袴なんかは、もう何日後かに、もっと良いのが出来て来ました。これなんかはいわゆる、還元ですね。
 これは、おかげを頂こうと思うてした事でも何でもない。自分の身を軽うしたいと思うただけの事。けれども、それは即刻、効いてきた、おかげになって返って来たと云うこともある。けれども、ここでは、とかく、信心とは地を肥やせと仰るから、それがいつまでも根弦のあるち云うですか、何時迄も効きます様な、私は根肥しの仕方の事を、ここでは言うてあると思うんです。
 だから、問題がほんなら、こうして常平生からの信心が出来て居る、こうやって。常平生からこうやって信心も出来とりゃ、御用も出来ておられるから、その常平生からの信心の内容であり、御用の内容がです。果して地が肥える様な心が肥える様な状態であるかどうかと云うことなんです。今日私は御神前であることを、色々願わせて頂いて頂く事がね、石田あゆみと云う歌手が居りましょう。石田あゆみと頂いた。
 次にはねタフマックA,Dという、何か武田薬品の薬の宣伝、耳のこうこ動くとがおりましょうが、外人でE,Hエリックあの人が言いよるとか、このタフマックA,Dか何かのごたったですね。どういう事だろうかと思ってから、分からなかった。石田あゆみてん、タフマックA,Dてん、そして今日、ここで五十節を頂いて見てですね、思わせて頂いたことなんですけれども。タフマックA,Dと云うのはね、巧まぬがええでと云うことなのです、と思うた。まあこれは大阪弁ですはね。
 ええでと云うでしょう。よいぞと云う意味のことを。タフマックという事は巧ますと云う、私は意味だと思うですね。この頃からアラン、ドロンやら頂いた。ああ云う風な意味なんです。もじったですね。タフマックE,D。あんまり人間心を使わんがええでと云うことなんです。人間心でああでもなければこうでもない、演出するなと云う意味なんです。神ながらが良いぞと云うことなんです。石田あゆみと云う事は私は、石という事は心と云うことだと思いますね。意志は心。
 意志が強い意志が弱いと。心が強い心が弱い。田と云うのは、いわゆるおかげの受け場、受け物です。あゆみと云うことは、歩くと云うことに通ずるとこう思うのです。信心の歩みと云った様なことを申しましょう。私の信心の歩みと。そして今日の御理解を頂いておる訳であります。だから心の受け物、心の受け物。いわば心を肥やせとこう言われる。あゆみと云うことは、足を運ぶと云うことになりましょう。
 一生懸命、教会に足を運ぶと云うこと。昨日は、親教会で月次祭に引き続いて、親先生の古希の御礼祭と云うお祭りがございました。古希を信者一同で御祝いをすると云うお祭りであります。大変有難いお祭りでした。それからとつさに先生が私に、手続き出社を代表して大坪先生、あなたが親先生に一言、お祝いの御挨拶を申し上げてくれと言うのですよ。そげなことそんなら、前の日から云うときゃ、ちっとは考えとくばってん、あなた突嵯ですからね。
 けれどもね、けれども私はお話をし終ってから思わせて頂いたことは、なるほど前から、私が考えておったら、あげなお話は出来とるまいと思う様なお話が出来た。巧まない訳です。そして日頃私が心の中に、一生懸命思うておること。それがいわば先生に対するところのお祝いの言葉として出て来た。若先生がそれを聞いておってから、まるっきり親先生に対する御理解のごとあったよち。恐らくあれが分かった者は、おるまい。けれども、私は、私自身がおかげを受けておる。
 私はねその中に親先生、私は最近切に思うことは、本当に三井教会に御縁を頂いておって良かったと云うことですと。同時に私は親先生を師匠として頂けておったと云うことが、もう本当に有難いと思います。もし私が〇〇教会に御縁を頂いておったら、もし私が〇〇先生を師匠としておったら、今日の合楽、私はありませんと私は申しました。またほんなこっです。これがどうでしょうか。甘木の親先生か、久留米の石橋先生かという様なお方が、私の師匠であったら、現在の合楽は開けとらんですよ。
 親先生が、百日間も入院をなさっておられた。お伺いをすると、普通で言うならば、とても日に、二キロも三キロも散歩をするてんなんてんち言うことは、大変に危険なこと出来る筈はない。それがお出来になられたと云うことはです、もう如何にそれが神ながらのことかという事が分かる。まだ病気が全快なさっておられる訳ではない。けれども今日の日に間に合うように退院がお出来になられたという事も不思議だ。
 云うならば奇跡だ。そこにそういう親先生の病気を通して、天地の親神様の私はそこんところを、神願成就と云う風に申しました。神様の願いがそのことを通して成就することになるのですから、私は本当に有難いと思うと、と云う様な話をとても私は、後で考えて見てね、若先生が云う様に、私が今度の御礼の後には、先生あなたから御挨拶をして頂きますもんのと云われとるなら、こんな言葉は使いはきらんと思うです。
 それはもう当たらず触らず。それはそういう挨拶になっとったでしょう。けれども私が本当にそう思うておる事なのですから。それはお祭りは親先生お礼のお祭りは、ささやかではございましたけれども。私共出社は言うに及ばず御信者一同の真心を結集してからの、このお祭りでございました。是は私自身がです本当に私自身が真心一杯と云うかね、人間心を全然使わずに、私が御用させて頂いておるからそれが言えたんです。
 その前のお月次祭の日に、こういう計画がされておりますと、あちらの総代さんから話があった。それで私はそれこそ巧まずに突嵯に、それじゃ合楽からこれこれおかげ頂きましょうと、こう云うことになった。後から考えて見てから、私がちょっと、つむじが軽かもんじゃけん、あげなことを。はぁらこれは三分の一位で良うはなかったかと、あとから思うたです。けれども巧まない。そん時に言われた時に、はあこれだけはおかげ頂かなと思うのがぽっと出てきた。それが真心なんです。
 だからお供えをなさるとか、又は自分の心の中にこれはと思うたら、それを追及しなければいけんです。人があの位じゃけん、俺もこの位で良かろうなんて言うことはない。そういうことが、いわゆるタフマックE・Dじゃなかろうかと私は思う。だから巧まずにいわば、なんの思惑もなしに、お話も出来た訳です。思惑もなしに御用が出来た訳です。私はその様にしてです、天地に対する還元であったり、又は自分の心が豊に肥えていくと思うんです。信心に連れはいらぬ。
 これは御理解二十六節にありますね。信心に連れはいらぬ。そこんところが今日私は、タフマック。あの人がいくらしなさるなら、家はこの位でよかろうと云った様なね。様な考え方で、そういう考え方でよしお供えが出来てもです、もうそれは私は大地に対する還元にはならないと思う。もう人間心が入っとるとじゃん、そうでしょうが。そういう意味に於てです、信心に連れはいらぬのです。あの人を見ることはいらん。この人を見ることはいらん。私の生き方がそれをそのまま出して行くことなのです。
 信心に連れはいらぬと云うことは、そういう意味にも、私はなると思うですね。そういう、いうならこれは私の生き方。そういう生き方からです私の場合は。ひとりでに物が出来る様なものであろうと云うおかげを受けて居るのじゃなかろうかとこう思います。お互いが、五年十年又は二十年と、合楽で信心の稽古をさせて頂いて、朝参り夜参りをし続けておられる皆さん。
 云うならば常平生から、この様にして信心が出来ておられるのに、ひとりでに物が出来ていないとするならばです。それは天地に対するところの還元にも、自分の心が豊になることの為にもの精進と云うものがなされていない。只自分の我情我欲の為に、何十年の信心が続いておるという様なことであったら、それじゃひとりでに物は出来まいと、私は思う。どうぞ一つ、教祖様がオーバーに仰っておるとも。
 嘘を教えられるとは思いません。だからいよいよ石田あゆみである。いよいよタフマックE,Dである。そういう信心をです、いわゆる神ながらな信心が、又は御用がです出来てこそ、初めてひとりでに出来る様なおかげになって来ると思うのです。度々無理を云うてお願いをしなければおかげは受けられん、と云う様なおかげではなくて、ひとりでに物が出来る様なおかげを頂く為に、今日の御理解の内容を、一つ本気で頂いてみなければいけんと思うのでございます。
   どうぞ。